これもあり

古田武彦さんの『俾弥呼』(ミネルヴァ日本評伝選)です。
古田さんは、40年前の『「邪馬台国」はなかった』以来、近畿天皇家一元史観なるものを批判し、邪馬壱国は博多湾岸にあり、その後九州王朝として7世紀末まで存続したという立場を主張しています。今回もその方向性は変わりません。もちろん、九州王朝説自体は、国家形成論からの議論がないままで、かつて吉田晶さんに異論を出されても反論はしていません。
今回の説は、いわば古田説の集大成的なところもありますが、それだけに、傷も感じられます。特に、「東日流外三郡誌」系の本を引いているところは、それがなくても論証に影響はないのに、いれたばかりに、いい加減な印象を与えるのは、著者にとって得策ではないでしょう。まして、巻末にひいたその文書に、「神代文字」が書かれていればなおさらです。
それとは別ですが、古田さんの倭人伝読解に誤読があるのではとも思います。卑弥呼倭人伝の記述に従ったほうが変換ですぐ出るので、こう書きます)が死んだところですが、原文「卑弥呼以死大作冢」を「卑弥呼死するを以て大いに冢を作る」と訓読しています。けれども、「以+動詞1+動詞2+目的語」という語順の場合、「以+動詞1」を、ここのように、「動詞1の連体形をもって」と訓読して、副詞句のように使うならば、「動詞2」の主語は、「以」のまえにある語だということになります。すると、古田さんのように読むならば、「卑弥呼は(誰かが)死んだために、一所懸命塚を作った」という意味になり、いちばん好意的に考えても、寿陵を作ったことになります。これは、「狗奴国」との戦いのあとの記述としては、なにか変です。やはりここは「以て死す」と読み、「戦いの責任をとって卑弥呼は死を選び」という理解をしたほうがいいのではないかと思います。(そのことについては、以前ここで書いたような気もします)
あと、投馬国への「水行二十日」を、二倍年暦で解釈していますが、それならば、日の出から日の入りまでが〈1日〉日の入りから日の出までも〈1日〉と解釈しなければなりたちません。そういう説もあるとは聞いたことがありますが、少なくとも、その日の数え方に関しては論証が必要なのではないでしょうか。