歴史性

昨日のつづき『猿楽能の思想史的考察』です。
戦時中の能楽に対する圧迫の紹介だけでなく、著者自身の能楽の内容に関しての分析がこの本には載っているのですが、その中で、能楽の詞章に、呪術的な要素を発見して分析する一部の論者への批判があります。
家永は、「構成要素を分析すれば民間伝承的なものが検出できるからといって、ただちにそれをもって当該文化現象の本質が解明し尽されたかのように考える風潮は、歴史における発展と文化の高度化という前進的側面を軽視または無視させる結果をもたらし、社会の発展に応じた内面的創造と外来文化の摂取による民族的伝統の変革という歴史の非連続面の積極的意義を看過させる危険を多分に孕んでいるのではなかろうか」(p119-120)といいます。
そのとき、ふと思ったのが、むかし『世界ウルルン滞在記』だかで、パプアニューギニアだかどこかの、まだ金属器をほとんど使用していない人びとのところにタレントが滞在するところがあって、そのときに、帰るときにその人びとの代表のような老人が、「飛行機をみれば君を思い出すだろうな」というようなことを語った(きわめて不正確なので、まちがっているかもしれません)ことがあったのを見た記憶なのです。その時代に生きていれば、当然、自分たちが直接体験していなくても、知識として知っていることが、いろいろな習俗や伝承のなかに加わっていくことは当然考えられます。20世紀に採集された「伝承」に、かりに飛行機に類するものがあらわれても、それが「未知の古代文明のなごり」だと即断することは許されないでしょう。
文化人類学の成果を否定するわけではありませんが、現在の習俗を、一足飛びに過去にむすびつけるのは、逆の意味であぶないですよね。