兵糧攻め

『ロスジェネ』でイベントがあるそうで、浅尾大輔さんのブログで案内をみました。
資本主義における文学・芸術のありかたについては、いろいろな議論がありえると思います。たしか、宮本百合子が最初の執筆禁止をくらったときに、宮本顕治は手紙で、こういうときこそ、ジャーナリズムに流されない仕事をするべきだという趣旨のことを書いていたように思います。もちろん、それには、『宮本百合子はいざとなれば食うに困らない財産があるからそんなことができるのだ』という意見もあるでしょう。徳永直が『太陽のない街』の絶版声明を出したのも、仕事がこなくなって干上がることを恐れたからだという事例も、同時に起きているわけですから。戦時中に志賀直哉永井荷風が沈黙できたのも、かれらに『財産』があったこともあるわけですし。
そういう点で、文学運動が自分のメディアをもつことは、そうした〈書いたものが流通できない〉という事態に対しての、抵抗の意味もあるでしょう。〈商品〉の〈使用価値〉が、どうしても商業資本のスタンスによって決められてしまうなかで、そこからはずれるものを拾い上げていかなければいけないのでしょう。もちろん、〈使用価値〉があると押し出すためには、一定の技術的なレベルがなければいけません。