力の源泉

三田村雅子さんの『記憶の中の源氏物語』(新潮社、2008年)です。
源氏物語が、その後の世代にどのように利用されてきたのかを、実証的にさぐっています。
源氏物語が、歴代のみかどや院、皇子たちなどによって、自分たちの立場を強化するとか、みずからを代弁するかのように使われてきたのだというのです。みずからを光源氏になぞらえて、不遇の立場を強調した方もいらっしゃるとか。桂離宮は、そうした意味をこめて、造られたのだそうです。
しかし、明治時代になると、源氏物語のような、みやびな世界は、絶対主義的な天皇の姿とはくいちがうというので、逆にある種の弾圧を受けたようです。谷崎潤一郎は、源氏の訳を書くときに、〈源氏と藤壺との密通〉〈冷泉帝の実の父親は誰か〉〈源氏が准太上天皇になったこと〉は書くな、と強力に要請されたというのです。
そんなふうに、時の権力に、利用されたり無視されたりしながら、それでも生きていくというのも、作品の力かもしれません。

本としては、索引がほしかったところです。

わたしぐらいになると、『源氏物語』として頭の中に〈絵〉として浮かんでくるのが、大和和紀さんの絵に、どうしてもなってしまいます。とくに、朧月夜や花散里、末摘花のような人なのですが。

それと、著者があげている歴史上の人物が、どうも大河ドラマの役で浮かんできてしまうのも、困ったことかもしれません。徳川秀忠とみると、中村雅俊だし、北畠顕家後藤久美子が思い出されてしまいました。そうした形での、ある種の〈刷り込み〉には、注意したほうがいいのでしょう。