機種依存

橋本不美男(1922-1991)『原典をめざして』(笠間書院、新装普及版、親本は1974年)です。
橋本先生には、大学のときにこの本の親本を使った講義を受けたことがあるのですが、そのときの本はいつの間にか行方不明になっていたので、あらためてみてみました。
古典作品、特に中古文学を材料にして、写本がどのようにつくられていくのかを書誌学的な側面から記しています。
この前、『中世の東海道をゆく』についてふれましたし、寒川旭『地震の日本史』(中公新書、2007年)でも感じたのですが、こうした研究が可能になるのも、当時のことを記した文献が現在まで伝えられているからなのです。それは文学の世界も同じなので、藤原定家が筆写しなければ「更級日記」は現在まで伝わらなかったのだし、冷泉家なりどこなりがきちんと保管しているからわかることもあるわけです。
それを支えるのは、紙に墨で書いたものそのものでもあるのだし、そうした媒体が、保存を可能にしています。紙縒りで綴じたもののほうが、糸でかがったものや、糊でつけたものよりも長持ちするのだと、橋本先生は述べています。
それは現在でも同じことで、ホチキスのような金属で綴じると、そこから錆が出て、紙がいたみます。
こうして、現在はデジタルによる表現がだんだんと多くなってきますが、そうしたものが、本当に何百年も残るのかどうかということも考えなければならないのでしょう。再生装置がなければ再現できないものは、実は案外もろいものかもしれません。
そういえば、井伏鱒二の『黒い雨』の主人公は、被爆の記録を和紙に墨で書こうとしていますね。今の紙も、中性紙はじょうぶですから、筆記具も鉛筆のような長持ちするものを考えておくことも大切なのでしょう。