消えはしない

平凡社が、『中国古典文学大系』全60巻を出したのは、1967年から1975年にかけてでした。今から思えば、「文化大革命」の真っ最中ということになります。
そうした激動の中ですから、もちろん、それによってたとえば『水滸伝』の翻訳そのものが変わるわけはないのですが、周恩来打倒を背後に秘めたといわれる『水滸伝』批判が、その直後の時期にはじまって、当時の『人民中国』(いまもあるのかもしれませんが、中国が日本向けに出していた日本語で書かれた宣伝月刊誌です)にも、連環画(紙芝居のようなものです)を使った、『水滸伝』批判があったことも思い出してしまいます。
というのも、その『中国古典文学大系』には、日本のこの種の出版物にはよくあるように、毎回月報が挟みこまれていました。当然、その巻に収録された作品についての考察であったり、中国文学や中国の民俗に関する論考であったりと、なかなか興味深い文章が多いのですが、この文革の時期ということもあって、どうしても時事的なものにわたってしまう文章も残っています。
竹内実さんが、1974年12月に出た、『淮南子・説苑』の月報に書いているのも、そうした文章です。「現代の文章と古典」というタイトルで、周一良という人が柳宗元の「封建論」を論じた文書をひきながら、当時の中国における、昔のことを引きあいに出しながら現在を批判するという、当時の中国にみられた「古典」の使い方についてふれています。また、『荘子』に書かれた、盗跖という当時の大盗賊集団のリーダーが孔子を批判したという寓話を実在のものとしてあつかうような、そうした流れがあることに対して、「書いたことは意外にはやく消えていくものだな」と竹内さんは感じます。
こうした、時事的な文章も多かったせいでしょうか、平凡社は、その後、『中国古典文学大系』を、何度か重版しますが、そのときには月報をつけないこととしています。それはそれで、たぶん執筆者の誰かが、もう出さないでほしいといったことからきているのでしょうが、そうした時代の波のなかで、存在したものは、存在したものとして、みていかなければいけないのかもしれません。
そこで思い出して、武田雅哉さんの『よいこの文化大革命』(廣済堂ライブラリー、2003年)をめくってみると、当時の子ども向け雑誌でいろいろと文革をすすめる側が使ったものが紹介されています。こうしたものも、時には思い出す必要もあるのでしょう。