汚れた握手

川崎浹『ソ連の地下文学』(朝日選書、1976年)です。
ソビエト政権時代の言論への抑圧とそれに抗する地下出版の流れを記述したものですが、1960年代半ばが、一つの転機になっているように見えます。1964年には、ソルジェニーツィンの『イワン・デニーソヴィッチの一日』がレーニン賞受賞直前で対象からはずされる、1965年からシニャフスキーとダニエルとが、裁判にかけられる、というように。
そこで思い出したのですが、日本でも同時期に文学の抑圧が起きています。新日本文学会指導部による、江口渙・霜多正次・西野辰吉・津田孝の除籍と、その仲間たちの文芸誌ジャーナリズムからの追放です。きっかけの一つが、部分核実験停止条約にソ連が賛成したことを賞賛するかどうかという問題だったわけですから、ソ連指導部と、新日本文学会指導部とは、共通の発想をもっていたのでしょうね。
日本の場合は手がこんでいて、加害者が被害者面をして堂々と息の根をとめたのです。攻撃されたほうは、自分たちの首を絞めにきている〈手〉をふりはらおうと反撃しました。その過程で、加害者の〈指が折れた〉のです。加害者たちは、ここぞとばかり〈あいつらはわれわれの指を折った。道理はわれわれの側にあるのだ〉と主張し、文芸誌ジャーナリズムを味方につけました。そして、ゆうゆうとみんなの〈首を絞めた〉のです。『甲乙丙丁』とか、『塑像』とかは、そうした主張のあらわれです。
1965年、新日本文学会の人びとを中心とした文学者たちが、モスクワに行って、日ソ文学シンポジウムが開催されました。弾圧を主導して、反対派を追放した同士が、語り合ったのです。
そこに中村真一郎の名前を見るのは、とても悲しいことです。加害者たちは、そういう人たちをとりこむ形で、自分たちを正当化したのですから。