脚色

水上勉の『古河力作の生涯』には、同時代のことを記すのに、年表を引用します。そこには、当然日露開戦前夜に、当時の有名な新聞であった『万朝報』が開戦論に転じたため、堺利彦幸徳秋水内村鑑三が退社し、堺と幸徳とは平民社を興したことが記されます。そこで思い出したのが、ドラマの『坂の上の雲』のことです。
この前放映された回(第8話になりますか)では、堺や幸徳の話は、当然のように出てきません。国民も開戦一色に染まっているかのように描かれます。
原作の作品があっても、それをそのまま映像化することは当然できません。何かを加えなければならないのは、登場人物が何を着ているかというレベルから考えてもいいでしょう。小説では、登場人物の身なりを、すべてのときに書くとは限りません。男性なら、ネクタイの柄をとってみればわかりやすいでしょう。〈背広を着ている〉ことはわかっても、ネクタイの柄まで書く義務は小説家にはありません。しかし、映像では、何かの柄のネクタイを身につけなければいけません。
そうした〈映像に付随する追加〉は、ほかのことでもあり得るでしょう。原作を書いた当時に原作者が知らなかった事実が追加されることも考えられます。そうしなければ、映像化したときの観る側を納得させる展開にならないこともありえます。織田信長を描くドラマで、CGを使ってでも安土城を壮麗に描かなければならないのも、その例になるでしょう。
けれども、いまの『坂の上の雲』は、そうした方向には進んでいかないようです。原作の叙述をなぞってよしとしているように見えます。付加するものが、菅野美穂石原さとみの、ナマズをさばくことからのトークだというレベルでいいのかという感じがします。原作の歴史観をよしとしても、個々の場面や時代背景の説明の中に、もう少し付加することで、20世紀初頭の日本を描くことは可能ではないかとも思うのです。まさかここまできて、明石元二郎とレーニンを直接会わせるという〈付加〉をするとは思えません。それをするぐらいなら、片山潜とプレハーノフとがアムステルダムで握手をしたという場面を描くほうがましです。
そういう意味では、テンションが下がっていますね。
追記
ナマズではなく、ドジョウだったようです。