伝達

武田徹さんの『原発報道とメディア』(講談社現代新書)です。
ちょうど、『民主文学』の1月号に、旭爪あかねさんの作品「ジャスミン」で、電子媒体による情報伝達の問題が取り上げられていたこともあって、情報の発信と伝達のことについて考えさせられます。
電子機器の発達で、「誰でも」情報の発信者になることができる(ここもその一端ですが)わけですが、その情報の質を検証するために、ジャーナリストの存在が必要になる、ということでしょうか。ネットの世界で、いろいろと流れる情報の質を担保するのは、やはり既存の何かによって〈お墨付き〉が必要になるのかもしれません。個人の感性や趣向によって、いろいろな判断が可能になる芸術の世界でも、表現のレベル(素朴な印象であっても)は問われてしまうわけですから、真実を追求するジャーナリズムの分野では、そこは欠かせないのかもしれません。
マス対ミニという対立軸や、プロ対アマチュアという軸はよくいわれますが、それだけでいいのか、ということでしょう。武田さんは、〈生き方としてのジャーナリズム〉と〈職業としてのジャーナリズム〉という言い方をしていますが、そうした軸を、どう生かすのかは、文学・芸術の世界でもひとごとではありません。