意図とねらい

この間、2回にわたって、アジア・アフリカ作家会議日本評議会の動きを追ってきたのですが、実際、北京の影響を受けたほうは、その後の動きがはっきりしません。文化大革命の時期には、北京はいろいろな国の運動にちょっかいを出して、次々と自分の意に沿う集団を作り出していたわけで、(日本では吉開那津子さんの『旗』とか『前夜』(いずれも新日本出版社)にその一端が描かれています)そうした流れの中に、作家会議もあったのでしょう。
そう思うと、もしソ連共産党が、日本共産党の中に分派をつくるように策動して、志賀義雄や中野重治がそれに乗ったのが1964年で、文化大革命の開始が1966年という、時間の順序が逆だったら、どんな状態になっていたのかとも考えるのです。
1964年の新日本文学会の大会で、運動方針のなかに「部分核実験停止条約の積極的評価」を入れたことが、大会で批判的な人たちをあぶりだす意味があったことは、大会後に江口渙たちを除籍するという経過の中で明らかになっているのですが、そうした方針を出した人たちが、本当にソ連のやり方を全面的に支持していたとは思えないのです。その人たちは、新日本文学会から、日本共産党の人たちを何とかして追い出したいと考えていたのですから、口実は何でもよかったのかもしれません。だから、もし文化大革命が先だったら、文革支持を踏み絵にしたということもありえたのかもしれないと、思ってしまうこともあります。
まあ、そうした死児の齢を数えるようなことをしてもしょうがないのですが。
日本アジア・アフリカ作家会議のほうも、現在は休眠状態のようです。