切断(続き)

堀田善衛 上海日記』(集英社、2008年)の巻末についていた堀田の年譜と、そのほかみているうちに、少しわかってきたこともあるので、前回の続きです。
(今回も、敬称略でいきます)
前史として、1964年に、新日本文学会は江口渙・霜多正次・西野辰吉・津田孝の四人を除籍したということがあります。そのうえで、
1965年2月に、アジア・アフリカ作家会議日本協議会は、総会で26人の委員を選出、その中に、窪田精・霜多正次・中野重治中島健蔵堀田善衛松岡洋子たちがいたのです。
ところが、1966年に動きがおきます。これは、霜多の文章、「ベトナム支援アジア・アフリカ作家緊急会議に出席して」(『世界政治資料』1966年9月下旬号に掲載、引用は『民主主義文学の道』(日本共産党、1967年)による)にある経過をみているのですが、
3月19日に、在コロンボの作家会議常設書記長は、常設書記局構成の10カ国(日本・中国・インドネシア・セイロン・インド・ソ連・アラブ連合・スーダン・ガーナ・カメルーン)に対して、「中国が会議の主催国になることを提案している」ことを付記して、緊急会議の開催への賛同を要請しました。ところが、ソ連・アラブ連合・インドは、この提案に対して、消極的であったり、カイロで会議を開くように主張しました。
6月9日に、北京で常設書記局会議が開かれ、ソ連・アラブ連合・インド以外の7カ国が参加しました。そして、6月27日から7月6日まで、北京で緊急会議を開くことを決めました。
一方、6月19日、カイロで別の常設書記局会議が開かれ、カメルーン・セイロン・スーダンソ連・アラブ連合・インドの6カ国が参集し、常設書記局のカイロ移転と、書記長の職務をアラブ連合の指名する人に代わってもらうことを決議しました。
北京では、すぐに批判の声明をだし、6月23日の常設書記局会議で、ソ連の除名を決めました。このとき、日本代表団は、中島健蔵松岡洋子西園寺公一・佐藤重雄・依田義賢の5人で、この決定に賛同したということです。
結局、6月末からの緊急会議では、ベトナム支援という本来の会議の目的以外に、ソ連批判の大合唱が行われたということらしいのです。
1967年3月、ソ連を支持するグループは、ベイルートで「第3回アジア・アフリカ作家会議」を開きます。そこには、日本からは堀田善衛長谷川四郎(他の人はいまのところわかりません)が参加しました。北京では、それに対抗して11月に「第3回」の会議を開く予定をたて、そのためには、ソ連批判と文化大革命礼賛を参加国に要請しようとしたようです。その結果、その路線に同調できない窪田精や霜多正次の存在に対して、中島健蔵松岡洋子たちは、7月30日、日本協議会の「解散」を決めた、という流れのようです。
そして、しばらくの空白の後、1974年に「日本アジア・アフリカ作家会議」が結成され、野間宏がトップで、堀田善衛が事務局長をつとめたということになるようです。この間、堀田年譜によれば、1970年にニューデリーで「第4回」、1973年にアルマアタ(当時のソ連、いまのカザフスタンにあります)で「第5回」の会議が開かれ、いずれも堀田は出席しています。「第6回」は1979年にルアンダアンゴラの首都ですね)で開かれ、堀田は出席しています。
そのうち、堀田の全集でも調べて、このときの出処進退について考えていきたいと思います。
ちなみに、『中野重治全集別巻』(筑摩書房、1998年)のなかの中野の年譜によれば、1966年6月21日に開かれた、代表団を送る会に中野は出席しています。ベイルート会議に関しての記載はないようです。