きちんと見る

杉田聡さんの『AV神話』(大月書店)です。
アダルトビデオのなかにある、女性をおとしめるさまざまな「しかけ」について検証しているのですが、その中で、レイプ映像を主に撮っている監督の作品を、「表現の自由」の面から「評価」している知識人がいると、杉田さんは指摘しています。
実写による映像ですから、そこには生身の人間がかかわります。そこでつくられる「暴力的」な映像は、当事者にとっては、人間としての尊厳を奪われるものになるのだということです。それを評価する知識人の人は、そうしたことへの想像力があるのかと問い詰めたいところなのでしょう。
退廃的な現実にぶつかったとき、それを描くということは、文学の場でもありえます。たとえば永井荷風の作品にも、そうしたものがいくつかあります。そうした作品を評価する場合、現実に作家がどうぶつかっているかが問題になるのでしょう。「濹東綺譚」(文字化けしたらごめんなさい。「ぼくとうきたん」です)が作品として成立するのは、作者が身をやつして、登場する私娼の生き方をきちんと見つめているからです。「つゆのあとさき」がおもしろくないのは、そこまで作者の目が行き届いていないからです。(ちょっと乱暴すぎるかもしれませんが)
そうした、まなざしをみていかなくてはいけないのでしょう。