義理と人情

近松世話物集』(角川文庫、諏訪春雄校注)の第2巻(1976年)にはいりました。
第1巻の心中物もそうですが、第2巻にも、「冥途の飛脚」のような、かけおちものがでてきます。で、近松の作品が高く評価されているのは、世間の「義理」と人間としての「人情」のはざまで、追いつめられていく姿を描いたからだというのは、まず問題ないところなのだと思います。
その「義理」の内容をよく考えてみると、いまの言葉で言えば、場合によっては横領なり背任なりという、経済活動の上で、罪とされるようなことなわけです。為替の封印をきって使うとか、別の用途として借りた金を横流しするとか。
では、登場人物たちがそこまでして使う金はというと、遊女を身請けするとか、そういう使い方をしようとするわけです。それが「人情」とされ、当時の観衆たちもそれをよしとしていたということは、どういうことでしょうか。
つまり、「遊女」という〈仕事〉は、決してよいものではなく、そこから脱出することは正しいことだという認識が、社会の中にあったのではないでしょうか。親の借金のかたに身を売られるとか、何かの事情でそれこそ〈苦界〉に身を沈めるというもので、決してすきでやっているとは誰も思っていない。だからこそ、登場人物たちの悲劇に、観衆は喝采を送ったのではないでしょうか。
そう考えてみると、「合法的な公娼制度だから」などという言い分が成立するわけもないということになるのではないでしょうか。アメリカまでわざわざ国辱ものの「意見広告」を出した国会議員さんたちがいらっしゃいましたが、(私の住んでいる地域でも、小選挙区で落選して比例で当選した民主党の方が、「意見広告」に参加していらっしゃいます)そうした方たちは、近松の作品に感動する感受性をもっているのかどうか。
堀川波鼓」という作品には、参勤交代で江戸に夫が出張しているときに、ふとしたことから不倫をしてしまう妻が出てきます。その妻は、夫にそれが露見して、みずから命を絶ってしまい、夫たちは、「妻の仇」ということで、京都にいるその不倫相手を討ち果たすのです。単身赴任がやはり「人情」に反した制度であることを、当時の観衆はわかっているわけですよね。現代の経営者たちはいかがなものでしょうか。