決定すること

大澤真幸さんの『不可能性の時代』(岩波新書)です。
大澤さんの文章は、けっこう難解なので、ここでいうことも、ひょっとしたら勘違いがまざっているかもしれませんが、今の時代は、かつての「天皇」だとか「アメリカ」のような、絶対的な評価の基準が失われている時代なのだというのが、主眼になっているようです。そのために、「自己責任」論のようなものがはいりやすくなっているし、インフォームド・コンセントのような、医師が治療法を決定できないような方法も生まれているというのです。
裁判員制度も、その点では似たようなところがあるのかもしれません。たしかに、銀行の破綻について、経営陣に刑事責任はないという最高裁の判決がありましたが、そうした判決に対して、道徳的観点からの意見をいれてみたいという意識も、裁判員制度を支持する人の中にはあるのでしょう。
もちろん、専門家を無条件で崇拝するのは行きすぎにはちがいないのですが、聞くところによると、裁判員制度のもとでは、裁判を迅速にすすめ、裁判員にわかりやすくするために、事前に「専門家(判事・検事・弁護人)」が流れを作っていくとかするそうです。
たしか、戦後の刑事裁判の、戦前と大きく違うところの一つに、「予審」制度の廃止があったと思うのですが、何か事前に話をしておくというのは、かつての「予審」のような密室裁判的なものが出てくるのではないかとも気になります。
どうすればいいかということに、すぐ答えるすべはないのですが、考えるための素材は常に近くにおいておかなければならないのでしょう。