苛立ちと開き直り

保田與重郎長谷寺・山ノ辺の道・京あない・奈良てびき』(新学社保田與重郎文庫、2001年)です。親本は、「長谷寺」は1965年、「山ノ辺の道」は1973年、あとのふたつは執筆は1962年、単行本未収録のようです。
ちょうど、保田が「復活」といわれ始めたころの文章のようです。
彼は、奈良県桜井の出身で、戦後はある時期からずっと死ぬまで京都に住んでいたそうですので、その点からも、この本におさめられた文章は、本当の地元のことを書いたものだといってよいでしょう。自分の生まれ育った地域への愛情を、彼は持ち続けていたのだということが、これらの文章からはわかります。
前に『日本浪曼派の時代』を読んだときにも思ったのですが、戦後の彼の文章の中には、時代への苛立ちを隠さないものがあって、それが逆に、ある種の「品下った」ふんいきをつくってしまっている面があります。そうした、「自分は悪くなかった」的な文章よりは、この本のものは、この世界が自分を創っていったのだという、ある種の「開き直り」を感じることができます。大和の国を、大神神社の少し北のあたりで南北に分けて、北は北朝方で、そこから南は南朝方だという区別をしているのも、そのひとつでしょう。
しかし、神武天皇を顕彰するのに、神武以来コメを基盤にした国づくりという視点を導入すると、やっぱりそれ以前の縄文時代の位置づけの問題にもなるでしょう。著者ははっきりとは言っていませんが、神武説話の本質は、西から来た勢力が先住民を新しく支配したということなのですから、(物部氏も、基本的には西からの勢力の一員です)それがコメを基盤にした支配をしたということは、何なのかということにもなります。大野晋さんのいう、コメを持ってきた人たちがタミル語と類縁関係のあることばを話していたということになるのかどうか、ということにもかかわってきますし、それこそ小学校の教科書から縄文時代が追放されていることとも関連するのかもしれません。
思えば、地雷をふみかねない内容でもあるのですね。