訓練し、新連句

柳瀬尚紀さんの『日本語は天才である』(新潮社)です。
柳瀬さんはごぞんじ『フィネガンズ・ウェイク』の翻訳をされた方で、そうした経験をもとに、日本語のいろいろな使い方について述べたものです。
その中で、〈七〉を「しち」と読むのか「なな」と読むのかについて論じています。本来は音読みなら「しち」のはずなのに、音読みで読むべき「七冠」を「ななかん」とよむのはどうかということから、いろいろとひろげてゆきます。その中に、ある辞書に、島崎藤村の『桜の実の熟する頃』を用例として、「なな」と読む例が拾われているそうです。それは、主人公が数値を読み上げるときのことだそうです。
数を読み上げるときの「算盤読み」というものは、聞き間違いをふせぐためのもので、ラジオで広がったのではないでしょうか。宮本百合子の「猫車」(1937年)という作品は、山口県の夫の実家の周辺のことを書いた作品ですが、そこにラジオの株式市況を聞いている老人が登場します。そこには、「新東百五十三円丁度、ふた十銭やす」とラジオの声が拾われています。〈二〉を「ふた」と読んでいるのですね。あと、柳瀬さんの本を読んで思い出したのですが、1976年の総選挙の開票速報のとき、NHKのテレビで、票数の画面が出ないときに、アナウンサーが得票数を読み上げたのですが、そのときにも、「……ふた」と読んだのが印象に残っています。

柳瀬さんは、「なな」の話から広げて、「何年ぶり」の「ぶり」について話をして、「ぶり」について大野晋さんから連絡をもらったことを語り、さらに大野さんの話から、日本語の脚韻について述べます。中村真一郎福永武彦の「マチネ・ポエティク」のグループが試みた脚韻詩を大野さんが「無理でしょう」といったことに対して、柳瀬さんが、〈ざれ歌ならできる〉として試みた話までひろがっていきます。けれど、やっぱり〈ざれ歌〉だというか、韻を踏むと、どうしても〈ざれ歌〉めいて聞こえてしまうというのが、日本語の詩の現状ではないでしょうか。

などと、いろいろと読みどころがありましたね。

ところで、きょうのタイトルはくふうしたつもりなのですが。