そういえばそうなる

この前、『前衛』の古代史の鼎談についてふれたときに、古田武彦さんの九州王朝説をトンデモだというふうに言いました。
もちろん、中学時代に『失われた九州王朝』(朝日新聞社、1973年)を単行本で読んで感服していたわけですから、そうした、少しは関心を持っている人には、魅力的にうつる説でもあろうかとは思います。
当時は「そうだね」と納得していたけれど、いまは「ちがうな」と感じられる部分をひとつあげましょう。
宋書倭国伝のなかの、いわゆる倭王武の上表文のなかの、次の部分です。

東征毛人、五十五国、西服衆夷、六十六国、渡平海北、九十五国

ここで、古田さんは、ヤマト王権では朝鮮半島南部は「海の西」という認識をもっていたと、古事記仲哀天皇が頓死した個所を引きます。それとの対比で、「海北」と言い切れるのは九州視点であり、そこから九州王朝を補強しようとしています。(本は売ってしまったので、正確なページ数などの引用ができませんが)

でも、この本文を見ると、『東』と『西』は、動詞の前にくる、動作の方向をしめすことばです。伝統的な訓読では「ひがしのかた」とか「にしのかた」とかいう読み方をするものです。(「西のかた陽関を出づれば故人無からん」という有名な漢詩がありますよね)ところが『北』は、地名の一部です。決して動作の方向を示す機能ではありません。対馬海峡と密接な関係を持って行動していた朝鮮半島南部の人たち(伽耶の地域でしょうか)の居住地域を「海北」と呼んでいるのです。「渡」という動作の方角は、この表現では断定できません。渡った先の土地が「海北」と呼ばれる地域であったことをさしているだけです。そうすると、方向として明示されているのは、「東」と「西」ということになります。九州島を「西」としている勢力が、この上表文を書いたわけです。

古田さんは、ここで間違ったのですね。(こうしたことは、きっと誰かが既に指摘しているのでしょうが)