戻っていく場所

辻井喬さんの書き下ろし長編、『萱刈』(新潮社)です。
「城」と呼ばれるなぞの権力者のもとにある萱刈村。そこでは萱を「城」を通して売りさばき、その利益の多くを「城」に納めていたのです。しかし、村と「城」との間に対立が生じたのか、主人公が村を出て、東京で学生生活を送り、建設会社に就職して間もないころ、村はなぞの火事により全焼、主人公の家族も全員消息がわからなくなります。
それから20年余り、とある県の知事のブレーンとして活躍した主人公に、その「城」のまちでの仕事が舞いこみます。ところが、彼はその町を訪れても、「城」にはいれず、仕事はすすみません。そのとき、故郷の村の舞を思わせる能をみていた主人公は、「党委員会」なる集団に拉致監禁されるのです。
主人公がなぞを解こうとするプロセスもあるので、あまりストーリーには深入りしませんが、なくなってしまった村をふりかえるための通り道が、村に伝承されていた舞で、主人公の家はそれを伝える役割をしていて、次男坊だった主人公にもそのリズムが体にしみこんでいるという設定に、政治や経済というものに支配されない文化のありようを見ようとする作者の意識がこめられているように見えます。故地にたつ主人公たちの身体に密着した舞が、村の復興の最後のよりどころであるということなのでしょうか。それは、町おこしのプランナーとしての主人公の立場をも、崩していくものでもあるのです。つくられた「まち」から、本源的な「むら」へ。それをどう考えるのかは、実はこの国のありようともつながるのでしょう。