料理の本

明治文学全集『矢野龍渓集』(筑摩書房、1970年)から「浮城物語」(1890年の作品)です。
時は1870年代末、海外に雄飛しようとする日本人を描く作品です。海王丸という船に拠って、インド洋南方の島を確保し、そこからアフリカやマダガスカルをわがものにしようとするのです。そのプロセスのなかで、インドネシア近海で大きな巡洋艦を拿捕し、浮城丸となづけてそこを根拠にしてインドネシアの現地勢力を、オランダからの侵略から守ろうとするのです。
19世紀後半の帝国主義諸国による世界分割のなかで、日本がどのように生きてゆくかを、作者は考えて、その打開を、欧米に伍して領土獲得に求めようとするのです。その政策的な議論はともかく、文学作品としてみればどうなのかを問われるわけです。
この作品、当時の批評家、石橋忍月や内田不知庵(魯庵)から、「人間が描けていない」「『小説は読者を楽しませるものだ』という作者の言い分は世の中におもねるものだ」と批判を浴びます。それに対して作者は、「いまの文学は特別な料理のようなもので、特別な材料ばかりを追求していて、栄養がないではないか。それに一石を投じようとしたのだ」と反論します。
 ふっと、小林多喜二の「飯の食えない人にとっての料理の本ではいけない」ということばを思いだしてしまいました。もちろん、それはサプリメントプロテインでいいということではありません。見栄えも、素材も、滋養もある〈料理〉を目ざさなければならないのです。龍渓の作品は、そこを見失っているように見えます。それが、「浮城物語」を単なる冒険譚に終わらせているわけですが。
追記
冒険譚としては、のちの『新戦艦高千穂』とか『浮かぶ飛行島』のような〈おもしろさ〉はなくはありません。浮城丸が海戦をする場面では、敵に対して東郷平八郎ばりの敵前回頭するところなど、ある意味時代を先取りしているのかもしれません。