引き際

ちょっと続きですが、古田武彦さんは、やはり稲荷山古墳の鉄剣の段階で、九州王朝説を再検討すべきだったと思います。その土地の実質的な支配権と、王権の問題を、きちんと歴史学の到達にたって検討すべきであって、そこを怠っておいて、<歴史学からの応答が少ない>と逃げるべきではなかったのではと、今になって思うのです。
たとえば、前回の<二倍年暦>にしても、古田王朝と、ヤマト王権とが同じ暦を使ってたとしたら、それは日本列島の同時性を示すもので、九州と近畿という二元的なものを想定する必要が果たしてあったのかということにもなります。
その意味で、1975年の岩波講座『日本歴史』で、吉田晶さんが、国家権力形成論への注のかたちで古田説への疑問を表明したことに対して、古田さんは応えるべきだったと思います。そのうえで、稲荷山古墳に対して、『関東に大王あり』という形でいったのが、『東日流外三郡誌』に引っかかった遠因ではなかったかと思うのです。