逆説的だが

ヴァージニア・ウルフ『自分だけの部屋』(川本静子訳、みすず書房、1988年、原本は1929年)です。
彼女は、女性が小説を書くためには、「年収500ポンドと、鍵のかかる部屋」が必要だと、ここで述べます。
もちろんそれは、金持ちでゆとりのある人が書く資格があるというわけではなく、そうした「ゆとり」のある人は書くべきであるという主張でもあり、それだけ女性は男性から軽んじられているということのあらわれでもあります。
とはいっても、誤解を招きかねない表現をしてしまうところに、ウルフの本領もあるにはちがいありません。
「必然の王国から自由の王国へ」といったのはマルクスだったでしょうか。たしか不破哲三さんの解釈では、社会を維持するための生産活動に当てる時間が「必然の王国」で、自由な人間活動に当てる時間が「自由の王国」ということだったと思います。
文学にせよ、芸術にせよ、スポーツにせよ、一定の専門的な力量をつけるには、それなりの「習練」の時間が必要です。その時間を作るには、何らかの形での「収入」が必要なのも、今の社会ではしかたのないことでしょう。たとえばオリンピックをめざすスポーツ選手にスポンサーがつくということも、そのひとつといってよいでしょう。
それが、将来の社会では、必要な労働時間が減少して、それだけ「習練」に当てられる時間が増えてくる。そうすれば、働きながら専門的な分野で活躍する人も多くなってくるでしょう。
「自分の好きなことをやって飯が食える」というのは、たしかにいいことには違いないのですが、それは一つ間違えると、「食べる」には、必ずしも意に沿わない「仕事」も引き受けざるを得ない場合もでてきます。戦時中に文学者や音楽家が、戦争協力を表現した中には、そうした気持ちを持っていた人もいたに違いありません。けれども、表に現われるのは、「戦争協力」の表現でしかないのです。「沈黙」できた人は、少なかったことでしょう。そのとき、「年収500ポンドと、鍵のかかる部屋」は、抵抗の力にもなりえます。
そんなことまで、ヴァージニア・ウルフが考えていたまでは思いませんが、そうした読み方も、できなくはないのです。