見落とし

小林芳規さんの『角筆のみちびく世界』(中公新書、1989年)です。
角筆というのは、先の細い棒のようなもので、書物にしるしをつける筆記方法です。ちょっとみにはわかりにくいものですが、昔の仏教や儒学漢籍などに、読み方などをすばやく記録するにはすぐれものだそうです。いまでいう、鉛筆のように使われていたそうです。
今までは、その見づらさのために、あまり注目されていなかったようなのですが、1960年代から徐々に注目されて、この本が出たときに、確認された角筆文献は200点にのぼるのだそうです。現在ではもっと増えているにちがいありません。
そうした気軽さのため、角筆で示された読み方には、当時の口語的な表現も多く見られるようです。この本には、文を連体形で結ぶ形とか、音便の形が紹介されています。墨書史料よりも、100年ほどさかのぼってそうした形が現れるということは、言語の変化が定着するまでの時間についても考えさせられます。いまでいえば、『ら抜き』が口頭ではほぼ定着するけれども、書きことばのレベルではまだまだ形としては認められない状況に似ているのかもしれません。
現物に拠らなければ発見できないものですから、現物を保持していくことの大切さもわかりますし、それだけ見落とされていたものの再調査も必要になるのでしょう。この本の存在を今まで気にとめていなかったこちらも、見落としの責めはまぬかれないかもしれません。