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(ちょっと人名が多く出てくるので、今回は敬称略でいきます)
『戦後文学とアジア』(毎日新聞社、1978年)です。
この本は、「日本アジア・アフリカ作家会議」が、1978年6月から7月にかけておこなった連続講座の記録だそうです。大岡昇平大江健三郎が、小林勝を安宇植が、堀田善衛を竹内泰宏が、というような組み合わせで、しめて9人の作家が扱われています。
いろいろな作家の、アジアについての態度の考察がされていて、興味深いものがあるのですが、それだけに、「アジア」とひとくくりにできない多様性を感じることもできます。
この企画、話のなかに、講演の会場で、「新日本文学会」が書籍を販売しているということに言及した方もいて、新日本文学会もけっこう深くかかわっているようです。あとがきを書いているのは栗原幸夫ですし、講演者のなかには針生一郎もいます。
この、「日本アジア・アフリカ作家会議」そのものにも、成立の過程でいろいろなことがあるようです。窪田精の『私の戦後文学史』(青磁社、1990年)の中に、「なぜAA作家会議日本評議会の「解散」に反対するか」という文章(1967年8月11日、『赤旗』)があります。それによると、「アジア・アフリカ作家会議日本評議会」は、1958年に結成されたアジア・アフリカ作家会議の「日本国内のための組織」だったということです。それで、1965年4月の総会で、「委員」が選任されたということです。その中には、阿部知二伊藤整木下順二桑原武夫・窪田精・佐多稲子城山三郎・霜多正次・戸板康二中島健蔵中野重治・羽仁進・堀田善衛松本清張松岡洋子などの人がいたそうです。
ところが、1966年7月、北京での会議(この段階で、すでにカイロでソ連主導の「作家会議」がひらかれていたそうです)で「第三回」会議を北京で1967年に開催することが決定されたのですが、それをめぐって、「中国のプロレタリア文化大革命がおさめた偉大な勝利」をたたえ、「ソ連修正主義者をほうり出し」ていくことを、会議参加の条件としようとしていったというのです。そこには、3月にベイルートでひらかれた、ソ連主導の「第三回会議」を批判するというものもあったのですが、一部の委員たちは、「反修正主義と毛沢東思想の評価で日本協議会が一致しなければ、会が存在する意味がない」という主張をしたのだそうです。その結果、7月30日に開かれた委員会で、白石凡・松岡洋子中島健蔵たちは、日本協議会の「解散」を決めてしまったというのです。窪田の文章は、それに抗議するものなのです。
こうした流れの中で、「日本アジア・アフリカ作家会議」がうまれるいきさつはどうだったのかはまだわからないのですが、(何を読めばいいのか、ご存知の方は教えてください。とりあえず、中野重治の年譜では何が起きているのかわかりません)その時に、やはりある種の「選択」がはたらいたのではなかったかと思うのです。新日本文学会は、1967年の時点ではすでに、江口渙や霜多正次たちを除籍し、日本民主主義文学同盟を敵視する団体となっていました。ですから、窪田や霜多は、「日本アジア・アフリカ作家会議」にも参加していないはずです。そうした選択のありようが、こうした『戦後文学とアジア』という講座の内容にも反映してしまっているのは、知っておかなければならないと思います。