後付け

子安宣邦さんの『「近代の超克」とは何か』(青土社)です。
日中戦争から、対米英開戦にかけての、日本の思想動向を考えながら、現代のアジアの問題にもつなげていくという、けっこう大きな視野をもったものです。
中国との戦争が、「事変」から実質的な「戦争」になっていく中で、戦争の目的に対して、後付けの論理をつくるしかなかった日本の矛盾や、それを「打開」するものとして対米英開戦が当時の「知識人」たちに与えたある種の解放感に関しての分析は、当時の時代状況を考えるうえで重要なものです。
当時は、「ヨーロッパ文明」に対抗する「東亜」というものがいわれるのですが、それを中国を攻撃し、中国国民の抵抗のなかで行うという、根本的な矛盾につきあたっていたというわけです。現代において、そうではない、〈アメリカ帝国主義的なもの〉(子安さんがこのことばを使っているわけではありません。誤解のないように)への対決の軸として、子安さんは、「戦争をしない国家としての戦後日本の自立」があってこそ、「抵抗線を引く資格をわれわれに与える」といいます。そこに、大切な考え方があるように思えます。

それにしても、「宣戦布告」ということ自体が、今の世界では死語に類するものになってはいないでしょうか。ベトナムに介入するとき、アメリカはベトナム民主共和国に宣戦布告はしていないはずです。いまのイラクでも、アフガニスタンでもそうでしょう。(記憶違いでしたら、取り消しますが)そのことをどう考えるのかは、まだまだ検討しなければならないのかもしれません。