意外、でもない

平野謙の遺稿集(というより単行本未収録文集というほうが正確ですが)の、『わが文学的回想』(構想社、1981年)です。
彼の最晩年に社会問題化した宮本顕治の「スパイ査問事件」に関しての文書などが収められていて、小畑もスパイだったということを論証している文章もあります。基本的には、欠陥を大きく言い立てるものですが、それはそれとして、彼の立場を貫いてはいるでしょう。
さて、その中に、1976年の日記があります。「スパイ査問事件」に関して、いろいろと文章を書いたり、『文化評論』や『前衛』を読んで事実を考察したりしていることが記録からうかがえるのですが、そのさなかの4月に、平野は入院します。その見舞いに来たひとのなかに、「川里喜昭」という文字が4月30日の項にみえるのです。この本の実質的な編集にあたったのは青山毅さんだそうですが、さすがにここには?マークをつけています。
どうみてもこれは、中里喜昭さんでしょう。なにせ同行していたのが「損保誌ノ編集者」だというのですから。中里さんの『青春のやぽねしあ』(晩聲社、1978年)は、平野の日記にも出てくる「損保調査時報」に掲載されたものなのですから、そういう縁で中里さんは平野のお見舞いにいったのでしょう。
考えてみれば、1964年の新日本文学会第11回大会に、平野は議長団の一員として、いわゆる「対案」を葬り去る立場にいたわけで、その大会にも中里さんは参加して、そうした大会運営に対して批判の論陣をはっていたのです。そういう意味では、立場を異にしたとはいえ、同じ空気を吸っていたということでもあるのでしょう。