自伝的というのなら

金原ひとみ『オートフィクション』(集英社)は書き下ろし小説です。
22歳の小説家、「高原リン」が、編集者から〈自伝的創作〉を要求されるのです。
実は作品冒頭の、新婚旅行の帰りの飛行機のなかで、夫を疑う女性という物語が、「高原」の書いた短編で、それを読んだ編集者が長編として、〈自伝的創作〉を依頼するというのです。
その段階で、すでに冒頭部分を、金原の書く物語なのか、「高原」の書くいわば劇中劇なのかをあえて不分明にしているのです。
そして、18歳の夏、16歳の夏、15歳の冬と、「リン」という少女を主人公とした物語が続くのです。つまりそれは、「高原」の書いた〈創作〉なのか、金原が書いている「リン」を主人公にした物語かをわざとぼやかしているのです。
虚実をあえて不分明にするという方法は、作者(金原)なりに考えているとは思うのですが、決して読後感のよいものではありません。
それは、だんだんと時間をさかのぼらせるやり方にも関係するのかもしれません。作中の「高原」にしても、作者の金原にしても、22歳の視点からの、15歳の「リン」や彼女をめぐる人たちへの距離感がないのです。15歳のときの、彼女の両親との対立にしても、恋人との関係と、その後の破綻にしても、それを書いている筆記者は、(金原であるにせよ、「高原」であるにせよ)22歳の視点からみることができるはずです。
ところが、そうした距離感が感じられない。そのまま、主人公のレベルにたっている。日記じゃないのだから、それでは、作品になりません。