担い手

麻生誠さんの『日本の学歴エリート』(講談社学術文庫、2009年、親本は1991年)です。
日本のエリートがどのように形成されていったのかということを、当事者の回想なども資料として使いながら、明治以降の日本の学校制度のありようとからめて論じています。
社会が社会として機能するには、どうしても分業は欠かせません。それは、あくまでも地位ではなく、任務の分担であるべきなのでしょう。著者のいうエリートというのも、社会全体の優先順位をつけ、全体構想を明確にするという点から考えると、どんな世の中になっても必要な分野であると思います。
そこで、ふっと思ったのですが、グラムシのいう〈現代の知識人〉ということばとのかかわりを、考える必要がありそうです。グラムシの考え方を歪曲しているといわれるかもしれませんが、現状を変革するグループの成員が、そうしたエリートとしての仕事をできるようになってゆく、そこに、これからの世の中のありかたにつながるものがあるのかもしれません。
『松田解子自選集』の完結の会で、スピーチをしたことがあるのですが、そのとき、『回想の森』のなかの、工場の労働者を文学サークルに組織する動きが弾圧されたときのことをとりあげました。工場づとめの労働者のようなひとたちが、きちんとした作品を書けるように成長していくのが、プロレタリア文学運動や民主主義文学運動の真骨頂であるわけで、専門家と専業者とのちがい(もちろん重なる場面も多いでしょうが)をきちんと認識することが必要なのだと思います。