畏れ

ちまちまと、『御堂関白記』(倉本一宏訳、講談社学術文庫、2009年、全3冊)を読んでいたのですが、当時の人たちは、相当『穢れ』に敏感だったようです。もちろん、当時の京都は、今よりも高温多湿(マラリヤとおぼしき、瘧なる病気がはやっていたようですから)なわけで、人間のみならず、犬猫や牛馬の死に直面したときに、いろいろな感染を防ぐためという、現実的な配慮もあったのでしょう。
ただ、それが、だんだんと広がっていって、死にまつわる職業にまで関連していくとなると、変なことになるわけです。
道長は、そういう点では、結構筆まめで、障りになることを、備忘のためか、こと細かく記述しています。彼のような、権力を担うがゆえに、自らの手でどうにもならないことへの畏れの気持ちは強かったのかもしれません。
今でも、人の手の及ばない災害はたくさんあるもので、今回の地震津波の犠牲になったかたがたや、損害をうけた養殖業のかたのことも考えています。