内を向く

ルース・ベネディクト菊と刀』(角田安正訳、光文社古典新訳文庫、2008年、原本は1946年)です。
アメリカ人による日本研究の古典ともいえるものですが、これが新訳で出たのは、ある意味タイムリーなのかもしれません。
というのも、『恥』に注目する著者の姿勢をみながら、東海林智(とうかいりん・さとし)さんの『貧困の現場』(毎日新聞社、2008年)を考えていたのです。この本は、貧困の状況のルポなのですが、著者は新聞記者で、巻末に、首都圏青年ユニオンの河添さんと、フランスの研究者の方との鼎談が収録されています。そのなかで、フランスのダヴィドさんが、こういうのです。
「フランスでホームレスの運動というと、政府に対してシェルターを頼むのね。フランスが場所を頼むのに対して、日本の特性は仕事を頼んでいた」「当事者のホームレス自身もシェルターを要求したりはしない」
河添さんも、それを受けて、「日本では、働ける人は働いて自立するのが真っ当であるという考え方が非常に強い。それはホームレスの支援運動をやっている人たちの間でも、やっぱりそういう認識なのかなと思うことがあります」といいますし、東海林さんも、「釜ヶ崎で取材をしているときもそうだったけど、みんな「保護かけてくれ」と言う前に、「仕事をくれ」と言うんだよね。仕事が第一の要求」という指摘をしています。
そうした心理のなかに、ベネディクトさんのいう「恥」の感覚が、現代でもある意味で続いているのではないかとも思えるのです。
昨年の4月29日の記事で、田村光雄さんの『化粧する男』を紹介しましたが、この作品は、非正規で働いている息子が、仕事を休んだら雇用が継続できないというので、父親が化粧をして息子になりすまして、元日に福袋作りの仕事に出かけるという話なのです。こうした作品にも、非正規労働の実態が描かれていたのですが、その意味を読む側はきちんと受けとめきれてはいなかったのかもしれません。親子関係というレベルでの理解にとどまっていたのかもしれないと、今になって思います。子どもが非正規雇用で苦しんでいることを、親の世代全体も、「恥」のように感じていたとしたら、非正規雇用を増やしてきた側の思う壺にはまっていたのかもしれません。
そういう点では、少しずつ状況は動き出しているようです。