交感

橋本槙矩さんの編訳による『アイルランド短篇選』(岩波文庫、2000年)です。
アイルランドは、もともとはケルトの人たちの住む地域だったわけですが、東隣のブリテン島の住人に圧迫されて、一時は植民地化されていた時代もありました。スウィフトがたしか、「赤ん坊を食用に」という形で、アイルランドの貧困を告発したり、エンゲルスにもアイルランド問題をあつかった文章があったように思います。アメリカの「マック…」という姓はアイルランド移民に多いとか聞いたこともあります。
そうした島の生活を描いた作品がいくつか選ばれているわけで、そこには、貧困の実態や、その中で精神が旧弊なものにとらわれている人たちが、作品の対象となることが多くなっています。
その中から、ひとつ。ブライアン・フリールという人の、「ミスター・シング」という作品があります。主人公が幼いころ、母方の祖母と暮していたときのできごとです。毎年1月から3月のころ、主人公は祖母と二人で西海岸のほうで生活しています。祖父が出稼ぎにいくので、手伝いと留守番をかねて、主人公が呼ばれるのだそうです。祖母は、生涯村を出たことのない人で、一番遠くにいったのが、50マイルほど離れた役所に、結婚の届けを出したときだというのです。
そこにある日、行商人がやってきます。かれはシンハという名前で、インドの出身なのですが、祖母はその名前が発音できず、「シング」と呼びます。いろいろと商品をみせるのですが、祖母には買うおかねがありません。その代わり、シンハに食事と一晩の宿を提供するのです。
アイルランドの島を離れたことのない老女と、インドからやってきて西のはてまでながれてきた男との、一晩の交流を描くことで、作者は、人間の感情の普遍性を描いているのでしょう。そうした精神のありどころは、見失ってはいけないのだと思います。