そのときどき

佐藤弘夫さんの『偽書の精神史』(講談社選書メチエ、2002年)です。
佐藤さんの本は、今までにも『神国日本』『起請文の精神史』をここで紹介しましたが、その先駆に当たるもので、中世日本(とくに南北朝以前)が、いろいろな「偽書」を使うことで、自分たちの信じる超越的なものとの交感をしめしていたというのです。
そういえば、宮沢賢治が、『銀河鉄道の夜』の推敲過程のなかで一時期入れておいた部分に、ジョパンニにある人が、本を見せる場面がありました。それは、ある時代に人びとが信じていた〈歴史と地理〉を記したもの、という設定だったと思います。しかし、宮沢賢治は、その部分を推敲する中で切り捨てました。「そのときどきの相対的な主観」というものではないところに、ジョバンニの進む道を探ろうとしたのだと思います。
いまのわれわれも、中世の人たちのように「偽書」をよりどころにしながら、自分の進む道をみつめていくということはできません。しかし、「偽書」がともかくも、当時の人たちにとっては、自己実現のためのはずみとして機能したことを、考えないことはできないのでしょう。既成の観念によりかかっては、現実に立ち向かうことはできないということは、昔も今も変りません。
ジョバンニが、何にも頼らずに、カムパネルラの死をみつめ進んでいかなければならなかったように、いまのわたしたちも、みつめなければならないものもあるのでしょう。