発想の底

パステルナーク『ドクトル・ジバゴ』(江川卓訳、新潮文庫、1989年、翻訳底本は1988年に雑誌『ノーヴィ・ミール』掲載のもの、最初の出版は1957年、イタリア・ミラノにて)です。
いまさらと思われるかもしれませんが、ソビエト政権もなくなって20年近くたっているので、かえってこうした作品をていねいに読むことができるのかもしれません。新潮文庫は品切れだったので、探すのに少し苦労はしましたが。
ロマノフ王朝末期から、ソビエト政権初期の時代を舞台にして、政治にほんろうされる主人公を描いた作品なので、ソビエト政権の負の部分もしっかりと描かれているわけです。それがノーベル賞受賞のときの騒動にもつながったのでしょう。
いまの目から見れは、この作品は、主人公が医師であることの、利点も弱点もあるように見えます。
利点というのは、技能さえあれば生き延びることができる職業ですので、いろいろな政権の実態を主人公の視点からみることができることでしょう。なにせ、パルチザンに捕まった主人公は、パルチザンの部隊にとどまって医療活動をしながら、脱走の機会をうかがい続けているのですから。
一方、よくわからない弱点ともいえるのは、医師という、人間の生命に直面する職業人としての、主人公の意識が、どうもすんなりといかないことです。人の命を救うという視点から、いろいろな政治勢力のもっている、美点も欠点も主人公の目には映ったのではないでしょうか。そこが、よく伝わらないのは、事実です。作者と主人公との思想が一体化しすぎているのではないかとも思うのです。
もちろん、医師がすべて命を尊重するかどうかというと、関東軍731部隊で「業績」をあげたり、戦後で言えば、薬害エイズや肝炎の問題などのような事件に関与した医師のかたもいらっしゃるわけですが、そうした人とは主人公はちがうでしょう。
作者と切り離した登場人物の設定とはむずかしいものです。とくに、作者は詩人ですから、よけいそう感じるのかもしれません。