言いっぱなし

昨日の続きというわけでもないのですが、日本史のトンデモ説として、ある意味最大の影響力をもっているのが、古田武彦さんが唱え始めた「九州王朝」説ではないでしょうか。
最初は卑弥呼の国が博多湾岸にあったという、わりあい文献的にはわからないでもない説だったのですが、だんだんとエスカレートしていって、何か今では壬申の乱額田王まで九州王朝のことだったといっているとか。
たしかに、1971年の『「邪馬台国」はなかった』を、小学校のころに読んで、そのあと、1980年代末の『真実の東北王朝』まで、古田さんの本はほとんどすべて読んでいた身として、最近の古田説のありようは、なにか哀れを感じてしまう点もなくはないのです。
単なる文献操作なら、何とでもいえるのです。実際には、出雲で剣や矛と一一緒に銅鐸が出土したり(九州でも銅鐸が出たと聞いたことがあります)、銅鐸が埋められているのも、どさくさまぎれではなく、きちんと秩序をもって埋蔵されていることがわかっています(前にここで書いた『金銀銅の日本史』にありました)し、だいいち、藤原京で出土するレベルの木簡も大宰府からは出ていないようです。
そうした話だけでなく、国家形成という理論的な部分で、古田説は何の展開も示せなかったことが、その説の限界だったのかもしれません。
その点で、『前衛』10月号の、座談会「日本の古代国家はどのように形成されたか」(吉田晶・甘粕健・小笠原好彦のみなさん)は、現在の到達点をよく知ることのできるものでした。ただ、それこそ、九州王朝説を、完膚なきまでに論破してほしかったというのは望蜀だったのかもしれません。
というのは、『葦牙』33号に、岬次郎という人が、古田さんの主張を「説得力のある彼の主張」と書いていて、唖然としたのです。1970年代ならともかく、21世紀にこんなことをいう人がいたとは、と思いました。
吉田晶さんは、早くも1975年に、岩波講座『日本歴史』の論文のなかで、磐井の乱を論じて、その中の注で、古田説を批判しています。批判に答えていないのは古田さんのほうなのです。