記憶のあいまいさ

昨日がミズーリ号の日というわけでもなくはないので、『八月十五日の神話』(佐藤卓己ちくま新書、2005年)です。
佐藤さんは広島出身で、わたしと同い年なのですが、ここで彼が分析している教科書で戦争の終わりがどうなっているかの分析をみても、自分がどのように教わったかの記憶がないことに改めて気づきました。
小学校のころ、学級文庫や図書室で、「少年少女おはなし太平洋戦争」「少年少女おはなし日本の歴史」などのシリーズを読んだり、サンケイ新聞社が出していた翻訳ものの「第二次世界大戦ブックス」などで、戦争のことについては自分なりに理解していたつもりではあったのですが、ポツダム宣言受諾からマッカーサーの厚木到着、ミズーリ号での調印式にいたるみちすじを、きちんと日程として把握しようとはしていないままにきていたような気がします。
もちろん、日本時間の8月14日の夜から15日の未明にかけて、秋田や小田原などを米軍が空襲したという事実は知っていましたから、ポツダム宣言受諾を知ったうえでの攻撃が行われたということをどうみるのか、(真珠湾の仕返しのつもりかもしれませんが)ということもあるのでしょう。
戦争というものを、単なる戦闘行動というだけでなく、それこそ「政治の延長」としてみていくことが、これからの時代にもとめられているのならば、この本のように、もう一度、戦争の実態をみていくことが必要であるにはちがいないでしょう。
それは、当然、「大東亜戦争」のはじまりはマレー半島上陸であったことの確認にもつながるのでしょうから。