類型をつくる

国書刊行会から出ている〈叢書江戸文庫〉の『式亭三馬集』(棚橋正博校訂、1992年)なのですが、三馬の作品は、たとえば十返舎一九が『東海道中膝栗毛』でやじさんきたさんというキャラをつくりだしたような、これが三馬のキャラだというものが存在しないのが特徴のようです。
この本には、『浮世風呂』も『浮世床』も、岩波や新潮の叢書に入っているという理由から収録されていないので、よけいにそう感じるのかもしれませんが、酔っ払いの生態を観察した「一盃綺言」(1812年)にしても、個人の個性というよりも、「型」を表現しようという意識が先にたっているようにみえます。
もともと江戸時代の草双紙は、「善玉・悪玉」ということばが生まれたように、人の顔を「善」や「悪」という字を書いた玉で表現しているようなものもありますので、(この本にもそうした黄表紙作品がはいっています)個性を重んじるという形ではないのでしょう。その点で、馬琴が八犬士をたとえ後の時代に坪内逍遥から批判されようとも、それなりの個性をもった人物として造形しているのは、注目すべきことだったのではないでしょうか。
もちろん、三馬のやりかたがよくないということはいちがいにいえません。現代でも、たしか劇団四季は、個々の役者で売りに出そうとはしていないように、(電車の中の広告を見ている限りでは)見えます。個性ではなく、類型の中に埋没させることで、大衆性を得ようとするというのも、ひとつの行きかたにはちがいないからです。それを可能にした、江戸の大衆文化のありようは、もっと考えなくてはいけないのかもしれません。