ムードとしての挫折

吉開那津子さんの『葦の歌』(新日本出版社、1971年)です。
作者がいま新聞に連載している「夢と修羅」は、父親の視点から書いた作品ですが、娘の視点から書いたのがこの作品です。1960年の安保闘争のころ、早稲田の学生だった主人公、麻子を軸にして、当時の学生のさまざまなタイプを書いています。安保闘争が、激しいたたかいだったことは、いろいろな立場から語られていると思いますが、主人公の麻子は、デモにも行くけれども、特にどの思想を大切にしているというわけではありません。それが、麻子の周りの学生たちを、客観的に見つめることになっています。
そこにあるのは、当時の「全学連主流派」に共感する学生たちの幼さです。国会を占拠すれば労働者や農民が立ち上がって革命が起きると夢想し、それがかなわないと逆ギレして政党の路線を非難し、自分の生きる道さえも見失ってしまう。まるで駄々っ子です。当時は「逆ギレ」などということばはなかったので、「挫折」などという一見かっこいいことばを使ったのでしょうが、まあ、「逆ギレ」が妥当な線でしょう。
昨年の教育基本法のたたかいも、法律は成立してしまいましたが、本当にたたかった人で、「逆ギレ」して「挫折」した人はいないようです。そんな簡単に「挫折」だの「絶望」だのしていては、からだがいくつあっても足りません。
たしか、加藤周一さんが、『夕陽妄語』だと思ったのですが、書いていたことがあります。
〈牛乳瓶にカエルたちが落ちた。あるカエルは、もうだめだと思ってなにもせずに、牛乳の中に溺れてしまった。別のカエルは、いきなりとびあがっては失敗して、やはり沈んでしまった。しかし、別のカエルは、とにかく努力することだと、必死になって牛乳の中をかき回しながら泳いでいたら、いつのまにか牛乳が固まってチーズになって、そこを土台にしてジャンプして瓶の外に出ることができた〉
正確な内容は覚えていませんが、たしかこういうものだったと思います。