武侠小説としての『紅岩』

ずいぶん久しぶりに『紅岩』を読みました。河出の「現代中国文学」に収められた立間祥介訳のものです。新日本出版社が昔だしていたのは全訳本なのですが、この版は冗漫なところを省略したのだそうです。
で、読んでみてあらためて思ったのは、タイトルにも書きましたが、これは「武侠小説」に類するものだと考えたほうがよさそうです。日本風にいえば、冒険活劇というところでしょうか。
舞台は四川省重慶。時期は1948年から1949年にかけて。つまり、中国の内戦がほぼ終結しかけた時期の、国民政府の最後の拠点での、弾圧に屈しないでがんばる共産党員を描いた作品です。ですから、労働者や農民のたたかいは出てきません。最初のほうで、工場を労働者主導で再建するという場面があって、その中で成崗という共産党の秘密党員が、周囲の労働者から信頼をうけて工場長になっていくという場面があったので、そうした状態が描かれるのかと思えば、彼は間もなく裏切り者によって捕らえられてしまい、その後獄中でのたたかいが描かれるのです。工場のたたかいがどうなったのかは、作品には出てきません。
もちろん、作者の意図は、自らの体験をベースにした、獄(中米合作所という名の謀略機関にとらえられる)での不屈のたたかいを書こうというのですから、そこを過大な期待をしてはいけないのでしょう。でも、そういう書き方が、冒険活劇であることは否めません。中国共産党のたたかいが、どのような基盤の上になりたつのかが、この作品には出てこない。それは自明なものなのかもしれません。しかし、それを自明のものとしてよいのかということは、問われなければならないのでしょう。柳青の『創業史』だとか、趙樹理の『李家荘の変遷』のような、農村を描いた作品には、農村の民主化と土地革命の必要性がともかく描かれています。そうした作品とは、やっぱりちがうのでしょう。