蛇足とまではいわないが

佐多稲子『樹影』(講談社文芸文庫、1988年、親本は1972年)です。
長崎を舞台にして、被爆者の画家と、彼を愛する華僑女性との交流を描く作品です。もちろん、画家には妻子がいるのですから、女性との関係は、公然とはできないけれど、誰もが知っているという、微妙なものになります。そうした心の動きを、作者はていねいに追いかけます。そこはたしかに、すぐれた点だといえるでしょう。
ところが、作品は、画家が亡くなったあと、残された女性の生き方を、彼女の死まで描きます。時期的には、1960年代後半、中国本国では大きな混乱が起きる時代です。女性は中国人であることを自覚的に生きていますから、本国の動向にいわば忠実に生きます。そうすると、今まで友好的な関係をもっていた日本の革新政党との間に、対立が起きます。彼女の経営する店にも、その政党の関係者は来なくなるのです。それどころか、両者の対立は暴力事件となり、彼女の親戚の青年が負傷するということにもなります。
モデルがいるとのことですから、実際にはそういうこともあったのでしょうが、この辺の記述は、それまでの男女の愛情を描いてきた作品に、付け加える必要があったのかとも思います。彼女の神戸の遠縁の結婚式では、赤い表紙の〈語録〉を読み上げるということもあったようです。そうした事態を、何か作者はのめりこんで書いているようにもみえます。
実際の作者は、その政党がソ連のいうことをきかないことに怒って党の規律に反対する行動をとっていたのですが、ここでは、モデルの人に寄り添って、中国と対立するその政党を非難しているように見えます。まるで、その政党を批判するなら何でもいいという感じもするのです。
作品が雑誌に掲載されている途中に、国連における中国の代表権が台北から北京に移るということもありましたし、ニクソン訪中とか、日中国交回復という時期に、完結し、単行本になるというタイミングも、いろいろと影響したのだと思いますが、今となっては、こんなこと書かなくてもよかったのではないかという感じはします。