スタンス

※ネタバレあります。

三丁目の夕日64』の映画について。
いろいろと練った話だとは思うのですが、吉岡秀隆演ずる茶川さんの文学への意識の問題を、少し考えてみたいのです。
というのは、前作で茶川さんは、〈芥川賞候補〉となる作品を発表しています。実際にはこの期には芥川賞は〈該当者なし〉だったのですが、そこでも実は問題になる行動をとっています。そこからはいりますが、町内の住人たちが詐欺師にだまされる場面があります。〈賞をとるには選考委員への接待が必要といわれ、鈴木オートの主人をはじめ何人かがお金を出します。かれらは、そうした〈談合〉のありえる世界の住人ですから、そこに不自然さはありません。けれども、茶川さんも一緒になってお金を出してしまいます。そこが、当時から気になっていたのです。
さて、今回はそれから5年後の世界です。茶川さんは、相変わらず少年雑誌の主力作家として活躍しているのですが、そこに彼を脅かすなぞの若手作家が現れます。
ところで、彼は〈芥川賞候補〉1回で、そちらの世界をあきらめたのでしょうか。1960年代前半は、まだまだ文芸雑誌の力は強かったはずです。だからこそ、奥野健男は〈「美しい星」のほうが「わが塔はそこに立つ」や「海鳴りの底から」よりも挑戦的な作品だ〉と主張し、戦後派文学を否定したわけです。
そういう時代に、かりにも〈芥川賞候補〉作を書いた作家が、その世界から離れて少年雑誌に物語を書くにあたっては、何らかの葛藤を乗り越える必要があったのではなかったかと思うのです。作品の中には、父親との対立が描かれます。けれども、表向き勘当していた父が、実は茶川さんの作品の掲載された雑誌は必ず買って読んでいて、感想の書き付けを雑誌の該当個所に挟んでいたというレベルの、〈感動〉を誘うような展開では、〈純文学〉と〈少年読み物〉との間での葛藤(前作ではまったく描かれていなかったわけではありません。だから、淳之介の実父に対して芥川賞にこだわっていたのですから)を、1964年の茶川さんがどう考えているのかが見えてきません。
だから、最後に、淳之介くんを送り出すところでも、茶川さんがどういう世界で勝負をはかるのか(実際、少年雑誌からは1960年代後半には小説は消えます。少女小説はその後もしぶとく生き延び、1980年代にあらたな展開をみせはじめるのですが)がすっきりしない。実名をだすのはなんですが、川上宗薫だとか、富島健夫だとかのみちをたどるのでしょうか。それはあんまりだとも思うのですが。
そのへんのところは、あの映画のある意味での〈きず〉ではないか、とは思います。