期待

『民主文学』8月号の松木新さんの文芸時評で、びっくりしたことがあります。それは、浅尾大輔さんの「ストラグル」が〈前編終わり〉とあるのに実は完結した作品だったということが明らかにされていることです。松木さんが浅尾さんに確かめた結果だというのですから、そのとおりなのでしょう。
4月6日の記事で、「ストラグル」についてふれましたが、そのときは、未完の作品だとすなおに信じて論評しました。そのときの論点は二つありました。ひとつは、主人公の所属するナショナルセンターが連合を思わせる設定になっていることが、主人公のこれからとどう関連するのかということ、もう一つは、財務省に突入する自爆テロ集団が、労働組合とは別の〈連帯〉を追求しているのではないかということでした。その二つが、後編でかかれるだろうと思ったからです。
ここで、〈完結〉と作者にいわれても、やはり釈然とはしません。ナショナルセンターのことはおきましょう。自爆テロ集団のことです。松木さんは、時評でこの部分を〈寓話〉と書いていますが、マツダ工場への突入事件をみてしまった今では、そうのんきなことはいえません。
マツダの工場への突入は、個人の犯行でした。ですから、自家用車ですし、もっていたのは包丁でした。けれども、「ストラグル」の自爆集団は、能面をつけながら「二連結型20キロリットルタンクローリー」を運転して財務省に突入し、一方では機関銃を腰だめで撃ちながら突撃します。視野の狭くなる能面をつけながら以上のことを遂行するには、そのための準備と訓練が必要です。それも、秘密裏に行わなくてはなりません。だいいち、機関銃の入手自体が、非合法でしょう。それを実現するには、それなりの理論と思想をもった組織が必要ですし、その成員としての覚悟も求められるでしょう。その点では、「ストラグル」の最後に出てくる、主人公のオルグのもとに労働組合を結成しようとして、オルグからの指示をのりこえる〈情熱〉をもった女性たちと、主観的な〈情熱〉レベルでの差がどのくらいあるのでしょう。

だからこそ、ここで作品を終わらせてはいけないのではないでしょうか。一方では、テロにむすびつく〈情熱〉をもった、もたせた人たちがいる。その人たちと、主人公たちはどこかで対決しなければなりません。そこを回避するならば、財務省に突入した女性たちは、作品のなかで報われないのではないでしょうか。彼女たちが命と引き換えにした〈情熱〉をほんとうの意味の連帯へともっていく〈場面〉を、浅尾さんに書いてほしいと思います。

追記
財務省に突入する女性と、組合結成に動く女性との、初発の〈情熱〉にあまり差がないだろうということへの認識を欠いた主人公として作者があえて設定したということもあるかもしれませんが、そうした批判されるべき主人公であっても、批判は作品世界のなかで行われなければならないのですから、やはりその〈場面〉は必要だと思います。
追記その2)
浅尾さんはブログで論評されることを好んでいないようですが、それはブログの使い方が違うということなのでしょう。