素材

この前紹介した『徳永直文学選集』(熊本出版文化会館、既刊2冊、2008年・2009年)ですが、そのなかに、第2巻に、今回はじめて単行本に収録された「みちづれ」(1952年の作品)という作品があります。戦争で夫を亡くした中年女性が、隣家の妻を失った男性と仲良くなるのですが、男は死んでしまうという内容です。お互いに職に就いている子どもがいるので、二人の関係は、公にはできない、けれども惹かれてゆくという流れなのです。
徳永には、似たような境遇に陥る女性を主人公にした、「あぶら照り」(1948年の作品、この選集の1巻に収録)という作品もあるのですが、そうした、女性の運命に徳永が注意を払っていたことは、記憶される必要があるでしょう。徳永自身も、妻を亡くし、壺井栄の縁のある女性と再婚し、それが破綻するという経験をしているわけで、それが、こうした材料に目を向けることにもなったのでしょう。
けれども、こうした素材は、ひとつまちがえると、男女の関係そのものを描く、煽情的なものになる危険性もはらんでいます。そっちに流れれば、いくらでも流れることができるのですし、そうした方向で書けば、発表舞台も広がることもあり得たでしょう。「人間性はそこにある」とでもいうような、言いわけの口実には事欠きません。
そこに流れなかった徳永は、やはり戦後の再出発に期するものがあったといえるかもしれません。その意味で、戦後の徳永の作品は、もっと知られてよいと思います。この選集は、とりあえず2冊出したところで、一区切りとするようですが、なんとかして次を期待したいものです。そのときには、『光をかかぐる人々』と、戦後の同時代を描いた作品をいれてほしいですね。著作権も切れているから、何とかできるかもとも思ってしまいます。


杉田俊介さんの文章ですが、浅尾さんなりの了解があって、第三者があれこれいうものではないのかもしれません。杉田さんが、「意識上は『希望は連帯』と述べながら無意識の水準では『連帯にはまだ早い』と突き放す。この感覚に彼のぎりぎりの批評性がある」(p39)と、作品「ブルーシート」について論じていることの重みは、了解できます。それは、いつもいっているように、「家畜の朝」で主人公の世話を焼いた〈おばさん〉を作品の最初のほうで死なせていることと通底します。それはわかっていても、です。