単純にはいかない

『国文学 解釈と鑑賞』(ぎょうせい刊行、至文堂編集)の4月号、特集〈プロレタリア文学プレカリアート文学のあいだ〉です。
こうした啓蒙的学術誌は、昨年に学燈社の『国文学』が休刊し、こっちの『解釈と鑑賞』も、至文堂の発行からぎょうせいの発行へと変わっているのですが、その中での特集です。
とはいっても、巻頭エッセイが、1950年代からプロレタリア文学運動を批判しつづけ、1960年代には民主主義文学運動の打倒を『新日本文学』誌上で呼びかけた栗原幸夫さんの手になる、「今日から見れば、プロレタリア文学を構成した運動論も文学理論も、ほとんど論ずるに値しない」という視点のものであることは、みなくてはいけないのでしょう。ですから、民主主義文学運動についての言及は、全体としてないといえそうです。

その中に、杉田俊介さんの、浅尾大輔を論じた文章があります。その中に、こういう文章がありました。
「やがて来る『ロスジェネ』からも共産党からも離れた場所で、長生きし、息の長い文学を書き継ぐこと自体をひとつの「闘争」となすための生活条件の準備と肉体訓練ではないか(大西巨人神聖喜劇』、中野重治『甲乙丙丁』、柄谷行人トランスクリティーク』を思い出す、それらが十分だとも思わないが)」
と、杉田さんは浅尾さんによびかけるのです。

いまは、杉田さんの呼びかけが、「ここにある」ということにしておきます。