そこにこだわる

毛利嘉孝さんの『ストリートの思想』(NHKブックス)です。
渋谷などのサウンドデモや、高円寺の素人の乱などに、変革の可能性をみようという趣旨のものです。
当然、彼が注目するのは、そうしたパフォーマンスと近接する、音楽や踊りなどの表現になりますし、今までの運動の不足面を強調しますから、左翼への不信もあります。
ですから、たとえば、『ロスジェネ』につどう人たちへも、批判の矢は向けられます。ともひろさんの事件に対して、〈敵〉を見ようとする『ロスジェネ』の人たちの考えを、「全体主義的な志向がまぎれ込んでいるのではないか」(240ページ〜241ページにかけて)ともいうのです。
もちろん、インディーズ的な音楽などの動きに関しては、参考になるものではありましょうが、これに対して、文学の立場はどうなのかという、問いかけでもあるのでしょう。

たとえば、浅尾大輔さんの『ブルーシート』に収録されている、「永遠の明日の国」という作品は、1999年の段階で、日系ブラジル人労働者のおかれた境遇を小説にしています。映画化される旭爪あかねさんの『稲の旋律』は、2001年に、〈職もつかずにぶらぶら引きこもりのような生活をしているのはおまえがだらしないからだ〉と自己責任論をふりかざす親に対して、家庭内暴力の萌芽をみせる人物を描き出しています。田村光雄さんの「化粧する男」は、元日も働かなければ雇用を保障されない非正規雇用の労働者である息子の窮地を救うために、父親が若作りをして息子と偽って就労する話を描いています。こうした、現代の〈生きづらさ〉にくいこむ作品があることを、もっと考えてもいいでしょう。そうして、文学の立場から発信していくことが、毛利さんのような発想をする人たちと、きちんと向きあうことになるのでしょう。