飛躍

組曲虐殺」を読んでいて、あらためて感じたのですが、多喜二が最初につかまって、豊多摩刑務所に送られたときは、非合法だった共産党に資金援助をしたという名目だったわけです。「組曲虐殺」にも、そのときの取調べの場面がお芝居になっています。
けれども、1932年の弾圧のときは、容疑のレベルが違っています。宮本百合子の「刻々」に、そのときの状況が描かれていますが、百合子が編集責任を負っていた、『働く婦人』誌の内容がけしからんという取調べがされているのです。
ここには、明らかに、弾圧する側の論理の変化がみられます。〈文学者の政治活動〉ではなく、〈文学者の文学・文化活動〉が弾圧の対象になっているのです。そこにいくには、ひょっとしたら、弾圧する側にも、ある種の覚悟が必要だったのかもしれません。けれども、その違いをどのくらいの人が認識していたのか。プロレタリア文学運動とは違った立場の作家たちも、いや、葉山嘉樹のような作家までもが、そのちがいを認識していたかどうか。(葉山は、多喜二の死を知ったとき、日記に、小説を書かせず街頭連絡をさせたほうが悪いという趣旨のことを書きつけました)
そうしたところまで、錘を垂らしていかなければいけないのかもしれません。