論じられること

サイデンステッカー(1921-2007)の『東京 下町山の手』(安西徹雄訳、ちくま学芸文庫、1992年、親本は1986年、原本は1983年)です。
明治から関東大震災までの東京の姿を描いたもので、翻訳者の尽力のたまものか、知らずに読めば、前田愛磯田光一かと思わせるような仕上がりになっています。原書の出版も、ちょうどそのころ(前田愛の『都市空間のなかの文学』は1982年ですし、磯田光一の『鹿鳴館の系譜』は1983年です)なので、よけい、近い感じがするのでしょう。
〈日本人論をいちばん読みたがるのは日本人だ〉とどこかで聞いたような覚えがありますが、エキゾティシズムの対象としてでなく、世界第3位(中国に抜かれたなら)の経済大国であり、独自の文化を持ち続け、1300年ほどの文学伝統をもっている国であると考えれば、周囲から研究対象となるのはいわば当たり前のことでしょう。
ボルヘスの『汚辱の世界史』だかに、赤穂浪士の討ち入りの話があったり、スーザン・ソンタグ近松の虚実皮膜の論を手がかりに文楽を論じたり、そういう、世界の中に、すなおに日本の生み出したものをおいてみたいものです。
サ氏の本のなかの、明治期の相撲の紹介も、簡にして要を得ていて、知らない人でも当時の相撲史の流れがみえるように書かれています。そういうことも含めて、客観的に見られることにも慣れなければいけないのでしょう。

たしか、何年か前に、イラクで日本人が人質になったとき、拘束した側の声明文に、ヒロシマナガサキのことについてふれていたのを、『日本人が手引きしたのでは』と政府関係者が言ったという報道を見たような気がしますが、そうした、意見がまだ横行しているのも、ひとつの側面なのですから。