判断しない

竹内栄美子さんの『戦後日本、中野重治という良心』を通読しました。
結果として、この前述べたように、1960年代前半の、新日本文学会が意見の相違を理由に江口渙さんたちを除籍したあたりのことに関してだけ、竹内さんは自分のことばで述べていません。まだ『人民文学』誌に関しては、内容に触れた部分もあったり、中野のハンガリー問題や、在日朝鮮人の帰還事業、チェコ問題に関する意見には、竹内さんのことばがあるのですが、こと日本共産党の第8回党大会に関しては針生一郎の文章を引くだけですし(針生のいう〈グループ〉なるものが、規約とは無関係の徒党であることを論じた、西沢舜一さんの本を参照した形跡もないようです)、新日本文学会の第11回大会に関しても、中野側の言い分しか出そうとはしません。奥野健男の文章を引用していますが、奥野は1950年代から民主主義文学批判を繰り返してきた人物ですから、やはりそれ自体が一方的です。
まるで、現存する民主文学に関しては、絶対に自分のことばでは表現しない、自分の頭では判断しない、と決意しているようにみえるのです。なぜそんなにかたくななのでしょう。