洞察

『古在由重著作集 第6巻』のつづきです。
1944年の古在さんの日記が収録されているのですが、そこに書かれた生活のいろいろも興味深いのですが、古在さんは、日記の中に、当時の新聞記事を貼り付けているようなのです。多くはヨーロッパの情勢で、東部戦線でのロシア軍の進出とか、ノルマンディー上陸以来の連合軍の戦いとか、未遂に終わったヒトラー暗殺計画とか、おもしろいものがあります。

それと同時に、日本の戦いもあって、マリアナ沖海戦での、アメリカ報道を引用した朝日の記事は、慎重に読めば、日本軍が勝ったとは読めないようになっていますし、10月には、次の記事もありました。10月16日の読売の記事なのですが、「沖縄島那覇市に対しては戦爆連合の大編隊をもって前後五回に亙る波状攻撃を加え第四回以後はその常套手段である無差別爆撃の暴挙に出た、市街住宅地区を盲爆、ついに全市を灰燼に帰せしむるとともに戦うに武器なき無辜の市民を大量爆殺した事実が十三日午後情報局に達した」報告があったというのです。さらに、「敵機は量を恃んで五百メートル以下に舞下り、全市域に多数の焼夷弾を投下したため市内各所では火災が起り、またわが邀撃陣をかすめた敵機の執拗な銃撃のため民防空陣の必死の消火活動にも拘らず防火作業も功を奏せず」に、消失家屋7824戸に及んだというのです。

この空襲そのものは、艦載機からの攻撃で、のちのB29によるものとはちがうのですが、その後に起きたことを考えると、低空からの焼夷弾投下と戦闘機による機銃掃射という、攻撃パターンが示されています。この教訓を、日本側はどう生かしたのでしょうか。沖縄ではこれを契機に、疎開が進められ、その中で対馬丸の事件もおきるわけですが。

それと、米軍の攻撃目標が沖縄であるということの意味を、日本軍は理解していたのかも気になります。よくよくみると、米軍が上陸した地域は、南洋群島を除けば、開戦前にアメリカ統治下の、アリューシャン列島、グアム島、フィリピンときています。そのことをよく考えれば、戦後処理で中国にもどるはずの、台湾島には来ないと考えるほうが道理にかなっていたのではなかったかとも思うのです。そうはいっても、サイパンテニアンから、民間人を撤退させるという発想を日本はもたなかったようですから、沖縄が犠牲になるのは、この段階でみえていたのかもしれません。

この新聞記事も、そう考えると、いろいろと含むところがありそうです。