長い目で

中高入試の過去問を出版することで有名な出版社が、著作権の問題で訴えられたそうです。(朝日新聞に記事がありました)
訴えた人たちは、ある著作権団体に加入しているひとたちで、そこは以前から、そうした副教材や問題集への二次利用に関しての著作者の権利保護を主張しています。そこのHPをみますと、会員名簿があって、けっこうおなじみの名前があります(小森陽一さん、小森香子さんの名もあります)。

けっこう複雑な問題があるようにも思うのですが、「それは使う側の意見だろう」といわれることは承知の上で、少し考えたいと思います。

ことがけっこう広がったのは、何年か前のセンター試験で、別役実さんの文章が出題されたときのことです。別役さんは、問題集への収録や大学入試センターのHPでの公開を拒み、結局そこは非公開のままで現在推移しています。
それ以前にも、小学校などでの副教材でも、本文の収録がはばまれ、「教科書を読んで以下の質問に答えなさい」的なドリルになっていたところもあります。

もちろん、著作者側からすれば、二次利用なのだから、それに相当した権利の行使があって当然というのはわかるのですし、そこをあいまいにしてきた出版社の責任は指弾されなければなりません。しかし、使う側からすれば、「この人の文章を使うと、あとが面倒だ」ということで、いろいろな利用が遠慮されることは、決してよいことではないように思います。

教材にしても、試験問題にしても、ある文章を使うということは、そこに何らかのメッセージがこめられます。入試問題であっても、特定の文章を使うことは、出題側のメッセージでもあることです。そこには、その文章を読み、筆者の主張を考えることで、受験生に何かを感じ取って欲しいという気持ちもあるでしょう。そういう形で、書いたものが読まれてゆくことは、筆者にとっても、結果的には歓迎すべきことではないでしょうか。たとえば、ある予備校の模試で、永井潔さんの文章をみたことがあります。出題者はそこにある種のメッセージをこめたでしょうし、それを通じて、そのときだけでなく、その後の人たちも、何かを感じることはできると思うのです。少し前に書いた、宮本百合子を出題した大学にしても、それで百合子の文章に関心をもつ人も、あらわれるかもしれません。

そうした通路が細くなるのはいかがかと思うのです。筆者の意図とまったく違う設問がでたら、堂々と抗議をすればいいでしょう(やはりどこだか忘れたのですが、今滋賀県知事をつとめている嘉田さんの文章を使った設問で、選択肢で選ぶ〈正解〉が、筆者の意図を明らかにゆがめているものがありました)。悪い設問をつくった学校は、しかるべく評価されるのも、やむをえないことです。見識の問題ですから。

著作権の切れた筆者も多いですから、そうした人たちばかりを選ぶことも、可能ではあります。たとえば永井荷風は今年限りですから、来年度入試からは使用可能です。そういうことも考えて、もっと議論を広げていかないといけないのではないでしょうか。訴訟というのも方法ではありますが、なにより、筆者の方々には、言論でこの問題を広げていただきたいようにも思います。そうでないと、〈さわらぬ神にたたりなし〉になることは、今後の著作権問題の議論には、よいこととは思えないからです。