礼節

本屋で、『太陽のない街』(金曜日)を発見しました。
徳永直の著作権は昨年末で切れているので、どこがどのように出そうが、誰が解説を書こうがそれはどうでもいい(彼の作品は公共のものですから)のですが、平井玄さんの解説を読んでいて、どうかなと思うところがありました。
それは、高枝の今後についてふれたところで、〈父と二人で〉生きていくのかという趣旨のことが書かれてあったからです。
太陽のない街』には、『失業都市東京』という、続編があります。その中で、高枝は萩村と結婚するのですが、萩村は心を病み、父は死に、高枝は静岡にオルグとして派遣されるのです。
いくら『太陽のない街』の解説とはいえ、続編にはっきり書かれていることを無視した書き方は、いかがなものかと思います。平井さんが続編の存在を知らなかったとすれば、それを指摘するのが編集者の役目ではないでしょうか。編集側も知らないということはありえないでしょう。今年の1月号の『国文学』の、プロレタリア文学特集の徳永直についての文章の中でも、『失業都市東京』に言及しているのですし。それぐらいのことは、やるべきではないでしょうか。


横浜市の市長が辞任しましたが、彼が、いつぞや、地方分権に関してのテレビのインタビューで、例に挙げていたのが、『横浜のような公園などがたくさんあるところなら、保育所に園庭はいらない』という、〈教育や福祉のレベルを落とす自由がほしい〉というものだったことを思い出しました。そういう考え方に共感する人たちがよく槍玉にあげるのが、ごみ収集の労働者や保育士の年収が高すぎるという意見なのですね。以前、ある市で、市議候補の〈出陣式〉に出くわしたときも、その人は、ごみ収集の労働者の年収が高すぎることを、行政改革の論点にあげていました。
ごみの収集のような大切な仕事は、私は市長よりも収入が多くてもいいと思うのですが、世間ではそうではないのでしょうか。