発信

岩崎昶(1903-1981)の『日本映画私史』(朝日新聞社、1977年)です。
著者の戦前の行動が記されているのですが、プロキノ(日本プロレタリア映画同盟)の活動について書かれた部分が、中心になっています。今東光が初代のプロキノ委員長だったとか、そうした裏話的なところもあるのですが、当時、アメリカやドイツにも、似たような集団はあったのだそうですが、自前でスタジオをもって、プリントをつくっていたのは日本だけだったということです。ただ、費用などの事情で、ネガをつくって複写するという、ふつうの映画のようなつくりかたができず、リバーサル(昔、スライド上映用のフィルムがありましたが、その原理ですね)でつくって上映していたので、プリントが使用に堪えられなくなって、湮滅してしまったということです。ただし、山本宣治の葬儀などをおさめたものは、宇治の山本家に保管されていたので、その後も保存されていたということです。
当時、『戦旗』が独自の配付網をつくっていたので、弾圧にも対抗して発行できたということもありましたが、そうした、自前のシステムをもっていることは、とても重要なことなのですね。